01.24
アネッタイから主に写真で綴る日記みたいなもの。RICOH GRDⅢと、ときどき7Dと40D。
家族でジュンク堂へ行き、那覇の街をブラブラすることに。
お昼は沖映通りのうどん屋さん「麺ぼう」へ。
妻は「鶏南蛮うどん」。次女と半分こ。
僕は「月見山かけうどん」。長女は「たぬきうどん」。
出汁がきいてて旨い。寒い時はあったかい汁物に限る。
腹ごしらえをしたあとは、久しぶりに平和通りに行ってみる。
賑やかな通りを一つ入ると、実に閑散としている。かつてはこの通りも人で溢れかえっていたのだろうか。
平和通りは奥へ奥へと探索していく楽しさがある。面白そうな店を何軒も置き去りにして奥へと進む。
老舗と新店舗が混在していて時間の感覚を失う。時空が歪んでいるんじゃないかとさえ思う。
老舗と新店舗は、古酒に新酒を入れて古酒にする過程と似ていて面白い。このアーケード街では、どのような個性も「平和通り」の集合的名称のもとに飲み込まれて行ってしまう。そんな強い磁場みたいなものを感じる。
ミクロ的に存在することはできずに、常にマクロ的に存在する。いやいや、一つの巨体を構成する小さな細胞なのかもしれない。
そういえば、平和通りは龍の躯体を思わせる。下には川が流れているし。都市のメタファーとしては想像力をかきたてるものがある。
ぽっかりと口を開けて貪欲に人々を飲み込んでいく。
真ん中に「牧志公設市場」があるのは偶然ではないだろう。いろんなところから「栄養素」が運び込まれ、加工され、いろんなところに持ち出されていく。消化器系と循環器系を連想させる。
居心地がいい。この居心地の良さは母体回帰だろうか。
平和通りから出るときに感じるあの眩しさみたいなものは、光の加減ばかりではなく、擬似再生・擬似生まれまわりのような幻覚なのかもしれない。
この東南アジア的喧騒はナイチャーにはたまらんだろうなと思う。日本語の通じる異国そのものだ。
逆に台湾人観光客からすると、拍子抜けするくらい習俗的同質性を見て取るだろう。
歩き疲れて一休み。「琉宮」でサーターアンダギーと黒糖ソフトクリームを食べる。妻は店員さんに完全にナイチャー観光客と思われている。ま、いつものことだが。
公設市場で「山羊刺し」を買って帰る。何年ぶりだろうか。子どもが生まれる前はちょくちょく山羊を食べに行ったのだが、生まれたてからは全く行かなくなった。かれこれ8年ぶりぐらいだろうか。
一口食べる。獣臭がする。旨い。本当に旨い。
Macがキレイでクリエイティブだとか、仕事ではファイルの汎用性や互換性から言ってWindowsだとか、えぇいこのさい二刀流だとか、いやいや便利なWebアプリケーションがあるのだからネットに接続していればOSは関係ないだとかいろいろ煩悶していたが、今回論文を書くという事態に直面してわかったことがある。
大事なのは「何で書くか」ではなくて、「何を書くか」ということ。内容がしっかりしていれば、はっきりいって何で書いてもかまわない。テキストデータが一番大事なのだ。
僕が論文を書く際に一番よく使ったテキストエディタツールは何かといえば、「B5のノート」。モバイルノートPCではなく、コクヨのキャンパスノート。結局のところ、「手書き」が考えを紡ぎ出す手段としては自分に合っているということを発見したのだった(うすうすわかってはいたのだが)。
使用頻度の高い筆記用具は「クルトガ」のシャープペンシルと、「ラミーサファリ」の万年筆。はっきりとした使い分けの基準はない。だけど、書くときはこの2本だった。手に馴染む筆記用具というのはあるのかもしれない。
PCは清書用。キャンパスノートを見ながら打ち込んでいくんだけど、そこで一番使ったアプリケーションは「メモ帳」。Macで言えば「テキストエディタ」。「メモ帳」の次に重宝したのは「アウトラインプロセッサー」。項目を入れ替えたりするのにとっても役に立った。ワープロソフトは「整形用」ツール。いわゆる最終形。「整形用」ツールとしての使い勝手の有無というのはあるんだろうけれど、キャンパスノートに文章は残っているし、テキストデータは保存してあるし、「整形用」ツールが「一太郎」であろうが「Word」であろうが大差はない(図を配置する段階になると大差あるんだけど)。
僕の場合、WindowsのデスクトップPCであろうがノートであろうが、MacのデスクトップであろうがノートであろうがiPadであろうが、Webアプリケーションであろうが、テキストを入力できればいい。
大学においても文系はハード的なものの制約が少なく、(基本的には)本とノートさえあればよかったが、大人になってからも、基本的には身一つでいいわけだ。
ひとつ自由になった。
僕は自分の書く文章が好きではない。
固い。読みにくい。回りくどい。
平易に書こうと心を砕いていないわけではない。十分努力はしているが,できあがった文章はひねくれたものになっている。(いないわけではない,という言い方そのものがひねくれている)
まず,一文が長い。長いので形容詞や副詞が多くなり,主述の距離が遠くなる。これは読み手としては努力を強いられるだろうなと思う。反省。
もう一つは語彙不足のため,概念語を平易な日常語にリライトすることができないことからくる,硬直性だ。
何も言い換えていない。
例えば,今日書いた文章なんて,自分で読んでもうんざりする。
『国語教育指導辞典』(第四版)の中で阿部昇(2009)は,評論・論説を「意見・仮説とその論証からなり,まだ一致をみない次項について意見や仮説を提示したいり,一致している事柄,定説となっている事柄に異論(仮説)を唱たりするもの」としている。つまり,これまで我々が自明のこととしていた身の回りの事柄に対して別の視点から論証し,価値観にゆさぶりをかけ,新たな見解を提示してくるものだということがいえる。
前半部分は引用だからいいとして,「つまり」以降の後半部分は目も当てられない。リライトしているつもりが,よけい意味不明になっている。
内田樹は『日本辺境論』(新潮新書)の中で以下のように書いている。
本書ではここまでヘーゲルとかハイデガーとか丸山真男とかを引用してきていますが、彼らの文章はいわば「真名」に相当します。
ですから、引用の後に「というようなことを偉い学者は言っていますが、これは平たく言えば「……」というふうな「仮名に開く」パラフレーズ作業を必ず行います。
コロキアルな生活言語の中に「真名」的な概念や術語を包み込んで、コーティングして、服用し易くする。このような努力は日本人にとっては本態的なものだと思うからです。まさに私たちの祖先はそのような仕方で外来の文化を取り込んで「キャッチアップ」してきたからです。『日本辺境論』237ページ
概念語は「真名」に相当する。「仮名に開く」。そう,平易な日常語に展開してみせること(かみ砕いて説明すること)は,わかりやすさを宗とする「論文」においても例外ではないはずだ。しかし,僕にはなかなか「仮名に開く」ことができない。これはひとえに「語彙力が足りない」からだと思う
土着の言語「仮名」女性語は当然「本音」を表現します。生な感情や、剥き出しの生活実感はこのコロキアルな土着語でしか言い表すことができません。
たしかに、漢文で記された外来語「真名」男性語は存在します。けれども、それは生活言語ではない。それを以てしては身体実感や情動や官能や喜怒哀楽を適切には表すことができない。
『日本辺境論』235ページ
生活言語で本音を表現することができない。これは致命的だと思う。いかに教育論文といえども,血の通わない論文は感動を呼び起こさないはずだ。逆に言えば,論文であろうとも心を揺り動かされたり胸が熱くなるのは,身体実感や情動や喜怒哀楽を表すような「仮名」の割合が相対として大きくなってるはずだ。
「わかりやすい」というこは「レベルが低い」ということと同義ではない。難しいことをいかにわかりやすい言葉で表現するかというのが,ひとつの学力であると思う。
しかしね,「仮名に開く」のは,ほぼ女性の独壇場であって,男性ははなはだ苦戦を強いられている。
さて,web上の話題をネタにするでもなく,時事問題に首を突っ込むでもなく,政治的な左右の問題を憂うわけでもなく,社会現象を分析するでもなく,デジタルガジェットの話題を追いかけるでもなく,ただ淡々と自分の内面に波風を立てないように過ごしている。いや,立たないような日常の仕様になっている。
仕事でこれだけアウトプットしていると,帰宅してから何かを書こうという気にならない(今日は別)。アウトプットするために激しくインプットもしているので,帰ってきてメールのチェックくらいが関の山。または,自炊してiPadに放り込むという作業をするだけで精一杯。iPadに放り込まれた電子化された書籍は日中活躍することになる。
読んでは書き,読んでは書き。その中で浮かんでは消える「ゴミ」みたいな思考の澱は頭をかすめるんだけど,通り過ぎるだけ。別にメモすることもしない。あまりたいしたこともないし,別件をメモしている隙に本件の集中力が途切れてしまうのが怖い。
文章を絞り出すときはアナログがいい。ノートに書き出して推敲して推敲したものをPCで清書する。文章を生み出す作業はこれが一番効率がいい。最初からPCで書こうとするとなかなかいいアイディアが浮かばない。人間はそんなに進化していない。
僕はいつも夜中に髪を切りに行く。
今回は帰宅が遅くなりすぎた。帰ってくると妻が心配して起きていた。そして帰宅と同時にベッドに入った。眠いのを我慢して起きていたのだろう。心配をかけすぎた。すまない。
僕も心配性なので妻の気持ちはよく分かる。夕方、妻が遅いと気が気でしょうがない。とんでもないことを考えてしまう。連絡を入れろと要求する。
でも、自分はできない。やらない。我ながら勝手だなぁと思う。そして申し訳なく思う。
メール一通入れる。
待ってる方としては、この一通が一筋の光明となる。
人に要求する前に我が身を振り返る。
心配して待っていてくれる人がいることに感謝。
国頭村辺戸にある「大石林山」に行ってきた。琉球開祖神アマミクが降り立ったパワースポットとされている。
上は「輪廻の石」。3回くぐることで生まれ変わることができるそうだ。
3回くぐってみた。生まれ変わったと信じる。
今年のテーマは「人と争わない」こと。換言すれば「自分の為すべきことを為す」こと。
他者との僅かな差異のみに一喜一憂し、視られる主体としての自分を強く意識するのではなく、
素の自分を開示し、自分自身で認めること。
「怒り」や「 不安」「動揺」というものは、「他者」との関係の中で「自分は間違っていない」という思い込みから生まれる。
その端緒、他者と関係していくときに「いらぬ価値判断」をしない。それは翻って自分に向かう刃となる。
「こうあらねばならない」という思いは息苦しい。自分も他人も傷つける。
「こうだったらいいな」くらいが丁度いい。
自尊心との戦い。これは僕のカルマだ。
しかし、これだって「自尊心を抑制しなければならない」と考えてしまうと結局同じだ。
「自尊心とうまくつきあっていくことができたらいいな。難しいけどね。」くらいにしたい。
腹八分目ならぬ気持ち七分目というところか。
掃除して準備して整えて。
パーティーは準備しているときが一番楽しいかもしれない。
料理は「グランバン」より出張サービス。シェフが一人ついて給仕してもらいました。ワインはオーダーしていないのでソムリエはおらず。
①フォアグラテリーヌ
②海老とジャガイモのテリーヌ
③サンダニエーレ産生ハム
黒こしょうとオリーブオイルのかかり具合が絶妙。
④サラダニソワーズ(南仏風サラダ)
⑤ムール貝のサフラン風味
きた,ムール貝。
⑥鴨のロースト
⑦クルマエビプロシュート巻き
⑧サーモンのフリカッセ(サーモンのロースト お野菜とクリームのソース)
⑨パスタ
⑩ナバラン(仔羊のトマト煮込み 温野菜添え)
写真ブレブレで使えませんでした。
楽しかったですね。
みなさん,今年もいろいろとお世話になりました。良いお年を。来年もよろしくお願いします。
次女と一緒にお昼を食べに出た。
近所ですませたくて、「風雲」に行こうと思ったが日曜日なので定休日。「和楽」に行ったが、いつものとおりいっぱいで駐車場が開いていない。「『一方通行』に行こうか」と話していたが、ご近所に「東江そば」というそば屋があるじゃないか。
もっと早くに気づけば、こんなにグルグル回らなくてよかったのに。決して三番手ではない。
手打ち麺ということで、ツルツルとした食感がうまい。
出汁もしっかり出ていて、塩加減もいい塩梅。好みだなぁ、ここのそば。
ジューシーもうまい。これは娘がハグハグ食べた。
「東江そば」の隠れた(別に隠してないが)一品がこれ。「餃子」。
皮がちょっと厚くて肉汁がうまく閉じ込められている。そばとの組み合わせが意外とうまいのだ。